※ 本記事について: 本記事は試合データと公開情報に基づく分析・観戦記です。賭け事(スポーツベッティング)の判断材料としての利用は推奨しません。試合内容や戦術の解釈は当サイト独自の見解を含みます。

日本が先に殴った。それを書けるだけで、この試合の入りは悪くなかった、と思う。29分、佐野海舟がペナルティエリアの混戦から押し込んで、ブラジル相手に1-0。優勝候補を向こうに回して、前半の半ばに自分たちが望んだ通りの絵を描けたのだ。プレビューで「日本の現実的な活路は、先に殴って4枚で閉じることだ」と書いた身としては、その前半分が、たしかに目の前で起きていた。

でも、走り切れなかった。56分にカゼミーロのミドルで追いつかれ、そして90分、途中から入っていたマルティネッリに決勝点を押し込まれる。ブラジル 2-1 日本。延長もPKもなく、ノックアウトの一発勝負は、終了間際のワンプレーで日本の側に転んだ。リードを60分以上守り切る――言葉にすれば短いその仕事の重さが、最後に効いてきた。

踊らなかったヴィニシウス

試合を見終えて、いちばん引っかかったのは失点でも采配でもなかった。ヴィニシウスが、ほとんどドリブルをしなかったことだ。いや、正確には「できなかった」のかもしれない。あの、相手を背負ってから縦に一気に剥がしていく、ベルナベウで何百回と見てきた景色が、この日はあまり出てこなかった。

数字を一つだけ置く。この試合、ブラジルの支配率は69%。パスは676本、成功率92%。完全にボールを握っていた。にもかかわらず、チーム全体のドリブル(仕掛け)の試行はわずか10回で、成功は5回。エースのヴィニシウス個人でも、99分を通して6回の仕掛けで成功は3回だった。これだけボールを持って、これだけ攻め続けたチームの数字としては、明らかに少ない。ブラジルが日本を崩したのは、個でぶち抜く形ではなく、676本のパスでじわじわ押し込み、最後はセットされた状況からの一撃(カゼミーロ)と、ベンチの飛び道具(マルティネッリ)だった。

あのピッチのこと

なぜ踊らなかったのか。理由は一つではないだろうが、無視できない背景がある。会場のNRGスタジアム――今大会の呼称ではヒューストン・スタジアム――の、ピッチだ。

ここはアメフトのテキサンズの本拠で、普段は人工芝。開閉式の屋根を持つドーム型だ。ワールドカップは天然芝が大前提なので、この大会のために芝が張られたのだが、ヒューストンの夏の暑さで芝を傷めないよう、屋根は大会期間中ずっと閉じられる運用になっていると報じられている。直射日光の入らない屋内で、寒冷地向けの芝(コロラドで育てて運び込んだものだという)を持たせる――そういう、かなり無理を通した環境のピッチなのだ。

そして今大会は、開幕以来あちこちの会場で芝の評判が芳しくない。天然芝を人工芝の上に敷いた「ハイブリッド」の会場が半数を占め、選手やコーチからは「遅い」「乾いて硬い」「ボールが転がらない」といった声が相次いでいる。フランスの選手などは「ピッチと呼べるのか、人工芝みたいだ」とまで言った。そしてほかならぬヴィニシウス自身が、グループステージのモロッコ戦のあとに、暑さで芝が乾いて試合がとても遅くなる、ボールを左右に動かしたいのにそれが妨げられる、という趣旨の不満を口にしている。今大会のピッチは速いドリブラーにとって優しくない、というのは、当の本人がいちばん感じていたことらしい。

もちろん、この一戦のNRGのピッチがドリブルを殺した、と断定はできない。日本の守備がよかった面も、立ち上がりに球際で食いついた面も当然ある。ただ、ボールが走らず、足元で止まりがちな表面では、相手を加速で置き去りにする1対1の価値は確実に下がる。助走で勢いをつけて縦に剥がす、というヴィニシウスの真骨頂は、芝が転がりを食ってしまえば半減する。支配率69%でドリブル10回、という妙な数字は、その仮説とよく噛み合う。

ドリブルが消えると、何が勝つのか

面白いのは、ピッチが個の打開を鈍らせても、ブラジルはちゃんと勝ったということだ。仕掛けが効きにくいなら、ボールを握って相手を動かし、人を入れ替えて穴をこじ開ける。最後は質と層で押し切る。この日のセレソンは、まさにそれをやってのけた。前半から右ウイングには本来エースのラフィーニャではなく、ハムストリングの状態で間に合わなかったため、若いラヤンが入っていた。にもかかわらず、ハーフタイムにエンドリッキ、66分にマルティネッリと前線の駒を次々に替え、その替えたカードのひとり、マルティネッリが90分に決めた。

これはプレビューで「リードを追う展開なら前線の飛び道具を投入してくる」と書いた、まさにその形だった。ドリブルという華やかな武器が封じられても、ブラジルにはまだ二段三段の引き出しがある。個で殴れないなら層で殴る――優勝候補の底力とは、たぶんこういうことだ。

「久保がいれば」は、成り立つのか

日本目線でどうしても出てくるのが、「久保建英がいれば」という話だ。今大会、久保はコンディションの問題でピッチに立てなかった。崩しで違いを作れる選手の不在は、この試合でも感じられた。日本の仕掛けの試行も6回どまりで、握ったブラジルに対して押し返す時間が作れなかった。だから、その嘆きはよくわかる。わかるのだけれど、少しだけ立ち止まって考えたい。

久保という選手の真骨頂は、狭いところでボールを足元に収め、細かいタッチで運び、仕掛けて剥がすこと――つまりボールコントロールとドリブルだ。だとすると、皮肉な話になる。ここまで見てきたとおり、この日のピッチはドリブラーという人種そのものに不利で、ヴィニシウスでさえ踊れなかった。久保の最大の武器は、このピッチがいちばん殺してしまう種類のものだった。ヴィニほどの選手すら封じられた芝の上で、久保だけが軽やかに違いを作れたと考えるのは、いささか虫がよすぎないか。

もちろん、反対の見方もできる。久保はただのドリブラーではない。狭い局面で時間を作り、ワンタッチで流れを変えることもできる。支配率31%まで押し込まれた日本にとって、ボールを落ち着けて運べる一枚は、それだけで救いになり得た。一発勝負では、たった一度のひらめきが勝敗を分けることもある。だから「いても無意味」とまでは言わない。

それでも私の見立てはこうだ。久保の不在は、確かに痛い。痛いが、それを敗因の主語に据えるのは、少し筋がずれている。この試合の根っこにあるのは、崩し役が一枚足りないこと以上に、リードを守る時間帯に69%も握られ続けた中盤の構造と、交代カードを切り合ったときの層の差、そしてドリブルそのものを両チームから奪った止まる芝だった。久保の不在を惜しむなら、同じくらい、その三つのほうを見ておきたい。

日本の90分

布陣は3-4-2-1。鈴木彩艶、最終ラインに冨安・谷口・伊藤洋輝、中盤に佐野と鎌田、外に堂安と中村敬斗、前に伊東純也・前田・上田。久保を欠くなかで、走力とハードワークで殴り合いを避け、先に一発を当てる――その入りは見事に決まった。佐野の先制は、まさに「数少ない好機を仕留める」設計図そのものだった。

問題はそのあとだ。リードしてからの日本は、4枚で閉じるというより、押し込まれて受け続ける時間が長くなった。66分には堂安に代えて菅原を入れ、78分、90分とカードを切ったが、ブラジルの圧力を90分跳ね返し切るには至らなかった。同点のカゼミーロは中盤で前を向かせてしまった一本、決勝点は最後の最後に相手の交代選手に押し込まれた一本。どちらも、握られ続けた末に訪れた失点だった。先に殴る、までは描けた。閉じる、を最後まで描き切れなかった。それがこの試合の、いちばん短い総括になる。

この試合に残ったもの

支配率69%のブラジルが、ドリブルをほとんど見せずに勝った。止まりがちなピッチが個の打開を鈍らせ、勝負を分けたのは握る力と、ベンチの層だった。日本は先制という設計図の前半分を描き切ったが、リードを守る時間を支配され、終了間際に層の差を突かれた。「久保がいれば」を言う前に、まずこの90分の握られ方とピッチの手触りを、記録として置いておきたい。

結び ― 「歯が立たない」では、なかった

負けは負けで、日本のワールドカップはここで終わった。それでも、8か月前の親善試合で0-2から3-2と返したあの夜に続いて、この日も日本は優勝候補から先制点を奪い、最後の一プレーまで勝敗をわからなくした。「もう全く歯が立たない相手ではない」という出発点は、敗れてなお、嘘ではなかったと思う。

そして今大会、勝った側のブラジルですら、ピッチに不満を漏らしながら戦っている。芝が転がりを食い、ドリブラーが踊れない――それは日本にとってもブラジルにとっても同じ条件で、その同じ条件のなかで、最後に質と層がわずかに上回った。サッカーの勝敗は、いつもピッチの上で決まる。今大会はその「ピッチ」そのものが、静かに、けれど確かに、試合の中身を変えている。ヒューストンの閉じた屋根の下で踊らなかったヴィニシウスは、そのことをいちばん雄弁に物語っていた。